【背景知識①】近代とはなにか?


1 現代とはどういう時代か

 小論文が扱う舞台となるのは、いまわたしたちが生きている現代です。現代という時代は、それより以前の近代から受け継いだ、いろいろな問題を抱えています。小論文の課題文が扱っているのはそのような問題を扱った文章です。

 さて、現代が抱える問題にはどのようなものがあるのでしょうか?さまざまな問題がありますが、例えば、社会に一部のお金持ちと、その他の貧しい人々が存在する経済的な格差のことです。この格差は今後もっと広がっていくようです。

 また、環境問題も深刻です。このまま地球温暖化が進むと、気温上昇の他にも、海面の上昇、熱波、干ばつ、大雨、洪水などの気候変動が引き起こされ、人間だけでなく、地球上の動植物の生態系に悪影響がもたらされます。

 いま挙げたこと以外にも、男女平等、貧困問題、いじめや差別、尊厳死、食糧問題、水質汚染、難民問題など、数多くの乗り越えるべき課題があります。

 これらの問題はそれぞれバラバラに存在しているわけではなく、複雑に絡まりあっています。そして、それらの原因は共通しています。

 では、これらの問題が起きた原因は何だったのでしょうか?それは、近代という時代が成功しすぎたことにあります。物を大量に生産し、消費することによる物質的側面。地球環境を顧みず、自分のエゴのままに欲望を満たそうとする、精神的側面。

 このふたつの側面が問題の根本原因に存在しています。近代とはどのようなものなのかを見ていきましょう。

2 近代の物質的側面

⑴ 生産と消費

 近代の物質的側面を象徴するキーワードは、生産と消費です。より多く、質の高い商品を作り出すのが「生産」で、それらの商品やサービスを買うことが「消費」です。

 近代では、いかに多くのものを生産するか、いかに質の良いものを作り出せるかが進歩であると考えられています。さらに、最新の商品やサービスを受け取り、生活に取り入れることを良しとする価値観があります。

⑵ 資本主義と共産主義

 物を生産し、消費する経済のシステムには二種類あります。資本主義と共産主義です。企業や個人の間で自由に競争させる資本主義と、国が何を、どのくらい作るかを計画する共産主義。このどちらにも共通しているのは、より多く、優れたものを作り出すことに価値を置いている点です。

 もうひとつの共産主義はうまくいかないことが、歴史により証明されています。一方で、資本主義は一見繁栄しているように見えますが、日本のバブル経済から長引いた不況、またリーマンショックとして現れた世界的な金融危機などで、多くの人々が失業に追い込まれました。資本主義は根深い問題を抱えた仕組みであるといえます。

⑶ 科学技術に対する過信と合理主義の罠

 科学技術の発達によって、物の生産力が飛躍的に高まるため、人々の科学技術に対する過信が生まれてきます。そして、科学技術の根本を支えている考え方は、合理主義です。合理主義は目的達成のために、最短、最効率な方法を選択していこうとする態度です。

 一見優れた考え方のようですが、この態度は、人間の感情や直感などの、論理では説明しきれない不合理な面や、経験からくる慣習や伝統などの持つ価値は切り捨てられてしまいます。この合理主義は、生産とあいまって、資本主義とともに世界の隅々まで浸透しています。

 生産を目的とする社会の中では、そうした目的にかなわない人や要素は軽視されることになります。例えば、高齢者や生産能力を持たない社会的弱者などの労働力として経済システムに組み込まれていない人間が疎外される原因となります。

3 近代の精神的側面

⑴ 近代的自我

 近代以前と近代で大きく異なるのが、人間の精神的な部分です。ここでは、近代的自我というキーワードでそれを見ていきます。まず、近代以前の個人は集団の中で生きていました。日本で言えば、近代は明治時代からで、近代以前は江戸時代までです。

 江戸時代までの前近代で、集団といえば、藩と家がそれに当たります。薩摩藩や長州藩、織田家、豊臣家などです。近代以前では、集団と個人の区別ができていませんでした。

 だから、もし自分が長州藩の武士に生まれたら、一個人である前に長州藩の藩士であり、織田家に生まれたら人間である前に織田家の一員であって、自分が独立した個人であるという意識はもっていませんでした。

 そこでは、何のために生きるかという目的ははっきりしています。それは、一言でいえば集団の存続のためです。個人は、自分の所属している藩や家という集団のために生きており、集団の存続と名誉のために、個人は存在するのだと考えられていました。集団と個人は一体となっていて、分離していないのです。

 だから、主人に対して忠誠を誓い、尽くすことは、集団全体に尽くすこととイコールであり、尽くせることが自分がにとっての幸せなのです。同じように、家のリーダーである父に尽くすことは、家という集団自体に尽くすことと、自分自身のために尽くすことと同じ意味をもっていました。

⑵ 自我の確立

 日本が近代化しはじめた明治時代以降、藩や家といった制度が弱体化し、集団から個人が分離しました。これが近代的自我の確立です。集団から自由になれた個人は、ここでふと考えます。「尽くすべき集団がなくなった今、いったい何のために生きていけばいいのか」と。

 今までは集団に尽くすことが生きる目的であり、集団に尽くすことが善でした。しかし、その基準がないまま生きることになった個人は途方に暮れることになりました。

⑶ 止まることのない欲望エゴイズム

 

 生きる基準を失った人々は、その代わりに、自分の欲望を満たすことを始めました。このようにして、近代社会というあたらしい世界に入った人々は自己中心主義=エゴイズムを肥え太らせていくことになりました。

 欲望の精神的な面を象徴するのが恋愛です。夏目漱石の『こころ』には、三角関係が描かれます。相手を手に入れたいというエゴと、自分の親友を裏切ってしまうという自責の念に苦しむ姿は、自由になった近代人が新たに苦しむことになったエゴイズムの問題を描いています。

 欲望の物質的な面でいうと、物欲があります。ここでいう物欲は、より質の高い物を手に入れたい、より快適な生活を得たいということを含んでいます。ここにおいて、近代の物質的側面と、精神的側面が結びつきます。

⑷ 環境問題

 環境問題は、近代社会の暴走する欲望を象徴しています。商品を作り出すためにはその材料となる資源が必要です。水、大気、動植物、鉱物などの原材料、熱などのエネルギーといった資源はすべて自然からとるものです。人間がそれらを加工して生産物を作り出します。

 自然からとるということをはっきり言えば、自然を破壊することです。ということは、物を生産することは、同時に自然を破壊することです。近代化がうまくいき、生産力が大きくなると、そのぶん自然を破壊する規模も大きくなります。この動きはとどまることを知りません。物を作り出すための原動力となる人間の欲望には際限がないからです。

⑸ 現代人の欲望の際限のなさ

 自我からエゴが生まれ、そこから欲望を求めるようになり、それが巨大な生産力と結びつくことで、環境が破壊されていく。環境問題は、もはや一刻の猶予もないところまできてしまっています。これが近代から続く、現代の病となっています。

 このような状況のなかで、現代人は生きています。現代文や小論文のテーマは、こうした、現代社会が抱えている問題をどのようにすれば乗り越えられるかということが扱われているのです。


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